湊川親方となった貴景勝が今明かす「芦屋」の神童時代と、相撲界の未来を拓く「常識破りの育成論」
貴 景勝 芦屋が生んだ、平成・令和の大相撲を代表する闘志あふれる大関。首の負傷を乗り越え、満身創痍で土俵を沸かせた彼が引退し、湊川親方として指導者の道を歩み始めてからしばらくが経つ。現役時代は寡黙で知られた彼だが、指導者となった今、その独自の相撲哲学を育んだ故郷への思いを熱く語るようになった。
関西屈指の高級住宅街として知られる街で、なぜこれほどまでに泥臭く、執念深い力士が育ったのか。多くのファンが抱くその疑問の答えは、まさに貴 景勝 芦屋での幼少期と、父・一光氏との壮絶な二人三脚の歩みの中に隠されている。エリート街道とは程遠い、愚直なまでの努力の軌跡がそこにはある。
高級住宅街に響いた「ガチンコ」の足音
兵庫県芦屋市。一般的には、静謐な邸宅が立ち並び、クラシック音楽が流れるような優雅な街のイメージが強い。しかし、佐藤貴信(のちの貴景勝)の少年時代は、そのイメージとは対極にある「汗と涙」にまみれたものだった。極真空手から相撲へと転向した彼を待っていたのは、父による徹底的な英才教育だ。
毎日のように繰り返される坂道ダッシュ、そして四股。近隣の住民が驚くほどの猛特訓が、あの強靭な下半身と、どんな相手にもひるまない押し相撲の基礎を作った。お坊ちゃん育ちという世間の偏見を、彼はその圧倒的な突き押しで粉砕し続けたのだ。
宿敵との出会いと、芦屋から始まった「打倒・怪物」の誓い
中学から親元を離れ、相撲の名門・埼玉栄高校へと進学した彼だが、心の支えは常に故郷にあった。帰省のたびに立ち寄る地元の定食屋や、慣れ親しんだ六甲山の山並み。それらは、厳しい部屋での生活や、ライバルたちとの激しい競争にさらされる彼にとって、唯一息を抜ける場所だったという。
「芦屋で育ったからこそ、負けたくなかった」。かつて彼はそう漏らしたことがある。恵まれた環境に甘んじることなく、むしろそれをハングリー精神に変えて土俵に上がり続けた。その執念が、のちの幕内優勝、そして大関昇進へと彼を突き動かしたことは疑いようがない。
湊川親方として見据える「現代っ子」の鍛え方
2026年現在、湊川親方となった彼は、自らの経験をもとに若手の育成に力を注いでいる。かつてのスパルタ指導をそのまま押し付けるのではない。現代の若者のメンタリティに寄り添いながらも、ここ一番での「心の強さ」をどう育てるかに腐心している。
「今の時代、ただ厳しくするだけでは人はついてこない。でも、土俵の上で最後に自分を救うのは、どれだけ自分を追い込めたかという自信だけ」。親方としての彼の言葉には、自らが満身創痍になりながらも大関の地位を守り抜いた重みがある。彼の指導を受ける弟子たちも、その背中を見て日々成長している。
「怪我との闘い」が遺したものと、第二の相撲人生
現役時代の貴景勝を語る上で避けて通れないのが、首や足首の度重なる怪我だ。押し相撲という、自らの体を弾丸のようにぶつける戦法ゆえ、代償は大きかった。休場を余儀なくされ、周囲から「限界説」が囁かれるたびに、彼は不死鳥のように蘇り、再び土俵の中心に立った。
その生き様は、効率やスマートさが重視される現代において、泥臭く生きることの美しさを教えてくれた。満身創痍で臨んだ現役最後の場所まで、彼の突き押しは一切ブレることがなかった。引退した今、その闘志は形を変え、後進の指導という新たな情熱へと昇華している。
地元・兵庫への恩返しと、次世代へつなぐバトン
近年、彼は地元である兵庫県や芦屋市での相撲普及活動にも積極的だ。子ども向けの相撲教室を開催し、自らまわしを締めて指導にあたることもある。「相撲は敷居が高いと思われがちだが、体一つで始められる素晴らしいスポーツ。地元から次の関取を出したい」と夢を語る。
かつて芦屋の坂道を走り抜けた少年が、今度は次の世代の背中を押す立場になった。湊川親方としての挑戦はまだ始まったばかりだが、彼の蒔いた種が、いつか再びこの地から新たな大関、そして横綱を生み出す日もそう遠くはないかもしれない。 (出典: 貴 景勝 芦屋(Yahoo!ニュース))