張作霖爆殺事件はなぜ起きた?河本大作の暴走と昭和天皇の怒り
1928年(昭和3年)6月4日未明、中国・奉天郊外の鉄橋で突如として轟音が鳴り響き、巨大な黒煙が夜空を焦がしました。満州の覇者として君臨していた奉天軍閥の総帥・張作霖(ちょうさくりん)が乗る特別列車が爆破され、非業の死を遂げた「張作霖爆殺事件」です。中国側では現場の地名から「皇姑屯事件(こうことんじけん)」とも呼ばれるこの大事件は、その後の満州事変、ひいては太平洋戦争へと続く日本の命運を決定づけた歴史の分岐点でした。
軍部の一部勢力による独断専行が国家の外交方針をねじ曲げ、国内政治を根底から揺るがしたこの事件の裏には、一体どのような思惑が渦巻いていたのでしょうか。首謀者とされた関東軍参謀の狙い、昭和天皇の激しい叱責、そして政権崩壊に至る緊迫の舞台裏をわかりやすく紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:1928年、関東軍高級参謀・河本大作大佐が満州支配の主導権を握るため、独断で張作霖の列車を爆破・殺害した。
- 要点2:事件の隠蔽と処罰の曖昧さに激怒した昭和天皇の叱責を受け、田中義一内閣が総辞職へ追い込まれた。
- 要点3:首謀者の厳罰化に失敗したことで軍部の暴走を許し、3年後の満州事変(1931年)へと直結する契機となった。
【事件の全貌】張作霖爆殺事件とは?発生日時と年号の語呂合わせをわかりやすく解説
張作霖爆殺事件が発生したのは、1928年(昭和3年)6月4日午前5時20分頃のことです。北京から本拠地である奉天(現在の瀋陽)へ戻る途上だった張作霖の特別列車が、日本の南満州鉄道(満鉄)と中国の京奉鉄道が立体交差する皇姑屯付近を通過した瞬間、橋桁に仕掛けられていた大量の黄色火薬が炸裂しました。
爆破の威力は凄まじく、鋼鉄製の橋桁が吹き飛ぶとともに、張作霖が乗っていた特別車輪は大破。重傷を負った張作霖は奉天市内の自宅へ運び込まれたものの、数時間後に息を引き取りました。現場の綿密な工作や火薬の扱いの手際から、当初より高度な軍事技術を持つ集団による犯行であることが疑われていました。
受験や歴史の学習において、この事件の年号(1928年)を覚える語呂合わせとしては、「人に不快(1928)な張作霖爆殺事件」や「行くぞ不穏(1928)な満州へ」といったフレーズが広く親しまれています。日本近代史において「軍部の独走が公然化し始めた年」として極めて重要な年号です。
【なぜ起きたのか】首謀者・河本大作と関東軍の真の狙い|奉天軍閥を狙った動機
事件を首謀したのは、当時、現地の警備を担当していた関東軍の高級参謀・河本大作(こうもと だいさく)大佐です。国家の承認も大本営の許可も得ないまま、なぜ現地の一将校が他国の軍閥トップを爆殺するという暴挙に出たのでしょうか。
当時の中国本土では、蒋介石率いる国民革命軍が中国統一を目指す「北伐」を進めており、北京を支配していた張作霖は次第に劣勢に追い込まれていました。日本政府(田中義一内閣)は、満州における日本の権益を守るため、張作霖に対して「本土の争いを諦めて満州へ退却し、現地を安定させてほしい」と要請し、張作霖もこれを受け入れて退却を開始しました。
しかし、関東軍の強硬派であった河本大作らは異なる見解を抱いていました。「利用価値が低下し、かつ日本の意のままにならない張作霖を生かしておけば、将来的に満州権益が脅かされる。彼を始末して満州に治安の混乱を作り出し、それを口実に関東軍が出動して満州全土を直接軍事占領してしまえばいい」という危険な謀略を描いたのです。すなわち、「張作霖という巨頭を消すことで政治的空白を作り、一挙に満州を日本の支配下に置くこと」こそが、河本大作の真の動機でした。
【満州事変との違い】3年後の柳条湖事件へどう連鎖したのか?
歴史の文脈で混同されやすいのが、「張作霖爆殺事件(1928年)」と「満州事変(1931年)」の違いです。両者は地続きの歴史でありながら、その規模と性質には明確な違いがあります。
最大の違いは「個人の暗殺テロによる現状変更の試み」か、「組織的・大規模な全面軍事占領」かという点です。1928年の張作霖爆殺事件は、張作霖の排除によって混乱を引き起こそうとしましたが、中国側の冷静な対応や日本政府の静観によって、関東軍が目論んだ軍事行動の拡大は不発に終わりました。
この失敗を教訓とした関東軍(板垣征四郎や石原莞爾ら)が、3年後の1931年9月18日に引き起こしたのが柳条湖事件であり、これを発端とする軍事行動全体が「満州事変」です。満州事変では満鉄の線路を自ら爆破し、それを中国軍の仕業に見せかけて即座に満州全土へ侵略部隊を展開させました。張作霖爆殺事件は、満州事変という巨大な侵略構想の「最初の実験」であり、直接の引き金となった事件だったのです。
【昭和天皇の激怒と内閣崩壊】「満州某重大事件」の隠蔽と田中義一内閣総辞職の真相
事件の一報が東京に届いた際、日本政府と軍上層部は激しいパニックに陥りました。国際社会からの非難を恐れた政府は、国内の報道を厳しく統制し、事件を「満州某重大事件(まんしゅうぼうじゅうだいじけん)」と仮称して真相を国民から隠蔽しました。
当時の首相である田中義一は、事件直後に昭和天皇に対して「徹底的に調査し、軍関係者が関与していた場合は軍法会議にかけて厳罰に処する」と約束しました。ところが、陸軍首脳部(白川義則陸相ら)は「軍の威信に関わる」「関与を認めれば国際的孤立を招く」と強硬に抵抗し、真相の公表と首謀者の処罰をもみ消そうと圧力をかけました。
軍の圧力に屈した田中首相は、昭和天皇に対して「調査の結果、関東軍の関与は認められなかった」と前言を覆す曖昧な報告を行いました。この背信行為に対し、若き日の昭和天皇は「お前の言うことは前と違うではないか。辞表を出してはどうか」と強い語気を伴って厳しく叱責したと伝えられています。
天皇の信任を完全に失った田中義一は呆然自失となり、1929年(昭和4年)7月に内閣総辞職を余儀なくされました。河本大作は軍法会議にかけられることもなく、予備役(事実上の停職・退職)という極めて軽い処分で済まされたことで、「軍の独走は罰せられない」という極めて危険な前例が作られることになりました。
【張学良の「易幟」とソ連謀略説】事件がもたらした誤算と現代の議論
関東軍の謀略は、軍事的な面でも政治的な面でも完全な誤算に終わりました。張作霖亡き後、後継者となった息子の張学良(ちょうがくりょう)は、父を殺害した日本への反発を強め、1928年12月に蒋介石の南京国民政府へ合流を宣言しました。これを「易幟(えきし)」と呼びます。
満州全域に青天白日満地紅旗が掲げられたことで、満州は日本の思惑とは正反対に、中国統一政府の管轄下へと組み込まれてしまいました。日本の権益を強引に拡大しようとした暗殺劇は、かえって中国側の抗日ナショナリズムを結束させる結果を招いたのです。
なお、冷戦崩壊後のロシアで公開された機密文書などを根拠に、「事件の真犯人はソ連の特務機関(GRU/NKVD)であり、日本と中国を戦わせるための謀略だったのではないか」とするソ連謀略説が一部の研究者や作家から提起された時期がありました。しかし、河本大作自身が戦後に残した詳細な遺稿や証言、関東軍関係者の一次史料、現地での爆薬調達ルートの記録などが一致していることから、学術的な歴史学界においては「関東軍・河本大作による主導」が揺るぎない歴史的事実として確立しています。
【張作霖爆殺事件】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:張作霖はどのような人物だったのですか?
A1:貧農の出身から馬賊(武装集団)の頭目となり、巧みな軍事力と政治手腕で満州全域を掌握した「奉天軍閥」の最高指導者です。日露戦争以降、日本からの支援を利用して勢力を北京にまで拡大しましたが、最終的には日本の意向に従わなくなったために関東軍に標的とされました。
Q2:首謀者の河本大作はその後どうなりましたか?
A2:軍から軽い処分(予備役編入)を受けた後、民間企業である満鉄の理事や山西省の産業会社幹部などを歴任しました。第二次世界大戦後も現地に留まり、中国内戦において国民党軍に協力しましたが、共産党軍に捕らえられ、1953年に太原の戦犯管理所で病死しました。
Q3:なぜ当時の日本政府は真相を国民に隠したのですか?
A3:国家の正式な軍隊である関東軍が他国の要人を謀殺したことが明るみに出れば、国際連盟や欧米列強から激しい非難を浴び、国際的な立場を失うことを極度に恐れたためです。「満州某重大事件」として伏字を使い、メディア統制を敷くことで隠蔽を図りました。
まとめ:軍部の暴走を止められなかった日本の教訓と歴史的意義
張作霖爆殺事件は、単なる一軍閥指導者の暗殺劇ではありません。統帥権の独立を盾にした軍部の独断専行、都合の悪い事実を覆い隠す政治の無力さ、そして不祥事を起こした責任者を適正に処罰できなかった組織の機能不全が凝縮された事件でした。
この事件で首謀者を厳格に断罪できなかったことが、3年後の満州事変、さらには日中戦争や太平洋戦争へと続く軍部の暴走を決定づける契機となりました。歴史の転換点に何が起き、なぜ国が誤った選択を重ねていったのかを振り返る上で、張作霖爆殺事件の経緯は今なお重い教訓を投げかけています。 (出典: 張作霖 爆殺 事件(Yahoo!ニュース))